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 今回は、米国の牧師向け雑誌「プリーチング・トゥデイ」に掲載予定の原稿をいち早くニュースレターのために翻訳しました。そのため、少々長めで皆さんがすでにご存知の内容も含まれていますが、ご了承ください。
 

祈り——説教における聖霊の力
ケン
神学校に行く前に東京で会社勤めをしていた頃、思いがけず伝道集会を催す機会が与えられました。私のルームメイトはクリスチャンで、予備校の講師として働いていました。彼は、キリストを知らない彼の生徒たちにクリスマスの意味を知ってもらえるような集会をクリスマスイブに行いたいと提案してきました。私が説教を担当するなら、企画・運営、説教の通訳は彼が担当してくれるとのこと。将来は神学校に行って献身することも考えていたので、これは説教の経験を積む良い機会だと思い同意しました。
 
集会の数日前、彼は私を座らせ、メッセージに関する注意事項を与えました。「僕の予備校から来る生徒たちは、教会に来たことがない」と彼は説明しました。「彼らが来る目的は、ただクリスマスの雰囲気を味わうためなんだ。」それから私の目を見据えて(それは、日本人にしてはとても直接的な態度です。)言いました。「だから、何をしゃべってもいいけど、彼らを回心させるような真似だけはしないでほしい。」
 
そのクリスマスイブの集会に、果たして何人の人が姿を見せてくれるのだろうと思っていましたが、55人ほどの生徒が来てくれ、私たちの小さな教会は満員になりました。狭い壇上の席から様子をうかがうと、彼らは居心地が悪そうにソワソワとあちらこちらを眺めていました。日本では教会に行く習慣がないため、彼らはこれまでに一度も教会に来たことがなく、おそらくこの先も教会に来る可能性は極めて低いことは容易に想像できます。これが彼らにとって福音を耳にする最初で最後の機会に違いないと悟ったとき、キリストを知らずして、この若者たちはどのように死に直面するのだろうという恐れに見舞われました。その日の終わりに私が語ったことに対してルームメイトには弁明できても、私の人生の終わりに、神に何と弁明したらいいのだろう——。
 
私は子どもの頃に経験したクリスマスの話、カナダの雪やサンタクロースの話からメッセージを始めました。それから、目前に迫った大学入試について語りました。入試は文字通り、彼らの就職と人生を決定してしまうのです。さらに彼らの人生の終わりで、神の御前で行う試験について語りました。その試験は、神ご自身がキリストにあって彼らのために受けてくださったことを聖書から示しました。イエス・キリストが完璧な人生を送り、私たちの罪を贖うために死んでくださったために、私たちは最も偉大な贈り物である罪の赦しと永遠のいのちを受け取ることができると説明しました。メッセージの終わりで、キリストを受け入れるための招きを行うと、15人ほどの生徒がその招きを受け入れて手を挙げました。(日本は、キリスト教に対して強い抵抗があることを知っていたので)「こんなことが、日本で起こるはずはない」と私は思い、一旦手を下ろすように言いました。それからもう一度福音について、さらにイエスに従うことに伴う大きな犠牲についても言及し、「キリストに従う決断をすると、あなたの人生は難しくなるでしょう」と断った上で、再び招きを行いました。すると、今度は約20人の生徒が挙手しました。それまで青年会すらなかった小さな教会に、一瞬にして青年会が誕生しました。
 
そのクリスマスイブのメッセージを準備したのは今から30年も昔ですが、当時私は正式な神学的学びも受けておらず、そのメッセージは説教学的にも多くのまちがいを含んでいたことは認めます。しかし、その夜神の霊が豊かに働いてくださるよう切に祈ったことをよく覚えています。若者たちの人生が大きく変えられたあのクリスマスイブの出来事を振り返るとき、私は使徒パウロと同じ気持ちになります。「私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。」(Ⅰコリント2・4)
 
今では牧師となり、説教は聖書に忠実に、説教学的にも理にかなうものでなければいけないという強い信念を持っています。しかし、私たちの説教において最も大切なのは自分の声ではなく、聖霊の声であることも確信しています。「1万トンの人間の知恵より、1オンス(約28グラム)の聖霊の力によって説教することを私は望む」と言った19世紀のイギリスの説教者C・Hスポルジョンに、私は百パーセント賛同します。
 
朝早く起き、夜遅くまで説教のために労苦しても、主がその説教を作られたものでなければ、説教者の働きは徒労に終わります。説教によって結ばれる永遠の実はおもに聖霊の働きによるものであるなら、私たち説教者はリラックスした状態で、祈りを通して神により頼むことが大切です。
 
私の場合焦らずに時間をかけて準備ができると、祈り深くリラックスした状態を保つことができるようです。確かに「おっと、もう土曜日だ。神よ、説教をまとめることができるよう助けてください」と焦る時もあります。土壇場で祈ることもできますが、私の経験で言うとそのような時の私の本音は、「神よ、(出来の悪い説教で)私が恥をかくことがありませんように」です。退屈でつまらない説教だと思われないように、慌てふためいていいトピックやたとえ話を探します。また、ギリギリまで追い込まれた状況で準備をすると、不純な動機からいい説教をしようとする自分にも気がつきます。心から祈り深く神の導きに耳を傾けるのではなく、自分をかっこよく見せるための「いいネタ」を探すことに気が取られてしまいます。
 
さらに、毎日行なっている霊的習慣から説教準備にスムーズに移行することができると、祈り深く観想的な姿勢を保つことができるように思います。私の1日は、愛犬サーシャと一緒に近所をジョギングすることから始まります。それから、少なくとも20分のセンタリングの祈りをします。深い呼吸をしながら神の御前で静まり、聖霊の導きを受けることに意識を集中させます。鼻から深い呼吸を繰り返していると、ヘブル語で息を表す言葉ルアーク(ruach)と霊を表す言葉は同じであることを思い起こします。深く息を吸い込む時に神の霊を吸い込み、息を吐く時に私の罪、不安、フラストレーションや悩みの種を吐き出します。黙想の祈りを行うと頭が鮮明になり、創造力や集中力が高まるので、それを行なった20分(あるいは30分、40分)の時間は後から取り戻せるように思います。
 
説教は観想の実であることが理想だと、トーマス・アクィナスは信じていました。神の御臨在の中で静まると、観想的で受容的な姿勢が培われます。この時間から生み出された実が直接、私たちの説教を養うことになります。
 
黙想はまた神とのより深いつながりをもたらしてくれるので、説教は私の肩にかかっているのではなく、おもな仕事はイエスが担ってくださり、私はイエスと共同作業を行なっていることを実感しながら火・木・土の朝は説教のための準備をします。そうすることで私はプレッシャーから解放されて身が軽くなり、自由でクリエイティブな状態を保つことができます。
 
土曜日の夜、妻を前に説教の練習をして、最終的な意見・感想をもらいます。(その前に、4、5人の同僚の牧師を前に説教のフィードフォワードを行なっています。)それが終わると、静かな時を過ごすよう心がけています。(土曜日の夜に、社交的なことはほとんど行いません。土曜日に結婚式の司式を行うときも、翌日説教するときはレセプションには出席しません。)土曜日の夜は、観想的で祈り深く過ごしています。
 
説教をする日曜日は、朝早く教会に行き、誰もいない礼拝堂で説教の練習をし、バンクーバー市内の3箇所で行われる6回の礼拝のために祈ります。その際、私のメンターであるレイトン・フォードから教えてもらった祈りをよく祈ります。「私の心にあなたが存在し、あなたの思いをお与えください。私の知恵、知識、洞察となってください。私の声にも存在してください。何を言うか、どのように話せばいいのか心配するなとあなたはおっしゃいました。その言葉を自分に与えられたものとして受け止めます。沈黙するとき、言葉を発するときを教えてください。私の肉体の中にも、あなたが存在してくださいますように。私の目や顔、人に触れる手からも、あなたの愛情が溢れますように。何をするにしても、それがいかに難しくても、些細なことであっても、あなたが望まれることをする力をお与えください。今日という1日をあなたと私の現実の中で、また栄光に満ちた希望の中で生きることができるよう助けてください。」
 
何年も前のことですが、イギリスにあるカンタベリー大聖堂を訪れた際、聖公会の牧師である友人が私のためにガイドをしてくれました。説教壇に続く曲がりくねった階段の前に来たとき、彼は私の方を振り返って言いました。「私たちはここで立ち止まって、待ちます。」「なぜですか?」と聞くと、牧師でもある彼はにっこりと笑みを浮かべ、私に囁きました。「聖霊を待ち望むためです。」私はそのことをいつも心に留め、自分の教会でも講壇に上がる前に一旦立ち止まって、聖霊を待ち望みます。あるいは、C・Hスポルジョンの習慣に倣い、心の中でこう繰り返しすます。「私は、聖霊を信じます。聖霊を信じます。聖霊を信じます。」
 
いつになく語る前に緊張してしまった時は「イエスさま、一緒に成功するか、失敗しましょう」と祈ります。失敗するよりは共に成功することを望みますが、私が人から褒められようが失敗しようが、イエスが私を受け入れてくださっている事実になんら変わりはありません。
 
説教の導入部と聖書箇所の朗読が終わった後、聖霊が私たちの教師であり、神がみことばを使って私たちのいのちを形作って下さるよう(声に出して)祈ります。メッセージが終わると、祈りの中で神に応答するよう人々を招き、彼らが神を求めることができるよう沈黙の時を設けることがよくあります。この短い静まりの時に、聖霊が人々の心に働きかけて、彼らを導いてくださるよう私も心の中で祈ります。
 
日曜日の夜最後の礼拝が終わって歩いて帰路に着く途中、説教の最中に犯してしまった失敗、例えば言葉に詰まったり、語るべき言葉を飛ばしてしまったことなどを敢えて振り返らないようにしています。最終的に、結果は神の御手にあると自分に言い聞かせます。神が、みことばを聞いた人たちの人生に働き続けてくださるように祈ります。神のことばは空しく帰って来ることなく、神の望むことを成し遂げると信じています。(イザヤ55・11)
・冒頭の写真は、カンタベリー大聖堂の礼拝堂です。本当は本文中にあった説教壇の写真を載せたかったのですが、肝心の階段部分を写したものとなると縦長な写真になるので、ニュースレターのフォーマットに合わず断念しました。イギリスでは、聖餐台が礼拝堂の正面中央部分に置かれ、説教者は隅に設置された説教壇から語る教会が多いようです。カンタベリー大聖堂の説教壇は、向かって左側のあまりにも端っこにあるため、この写真には写っていません。
・9月8日から正式に、テンス教会の7つ目の礼拝がブリティッシュ・コロンビア州立大学 (UBC) 内で始まります。2年近くかけて準備を整えてきましたが、2週間前にその場所でボヤが起き、ただいま修繕に追われています。UBCの学生だけでなく、世界156カ国から来ている留学生たちとも福音を分かち合うことができる機会が与えられます。この礼拝の上に主の守りと祝福がありますよう、私たちと共にお祈りしていただけたら感謝です。
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