沼地に流れを
早基子
遠藤周作原作、マーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙』の中で、キリスト教が根付かない日本の土壌を「沼地」と表現されていたとか。ケンは上映後すぐ観に行きましたが、一緒に行く予定だった私は都合がつかなくて、結局観ることができませんでした(本は読んでいます)。ですから、私の解釈は映画とズレているかもしれませんが、この「沼地」という言葉から教会のあり方について考えさせられたことがあります。
いま私は、サンフランシスコ神学校でのケンの恩師であり、プロテスタントでは先駆者的な霊的同伴者(スピリチュアル・ディレクター)として有名なスーザン・フィリップス先生の『The Cultivated Life』という霊的形成の本を翻訳しています。その本の中で「恵みの形態は流れです」という言葉があり、恵みを受けた人を通して、恵みが人から人へと流れて行く様子がくり返し描かれています。そのような文章を訳しながら、確かにその通りだと思いながらも、日本では恵みの流れが悪いように感じていました。
そんな折「沼地」という言葉を聞いて、エゼキエル書47章の言葉を思い出しました。神殿から流れ出る水が、やがて大きな川となっていく箇所です。その川が流れて行く所には多くの魚が住み、川の両岸ではあらゆる果樹が成長して豊かに実を実らせ、その葉はいやしを与えます。「しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。」(エゼキエル47・11)と書いてあります。恵みの形態は流れなので、流れが止まってしまった沼地には恵みもいのちもありません。
確かに『沈黙』の時代は、幕府の激しい迫害によって恵みの流れがせき止められましたが、今の時代も有形無形の規則や制度が日本の社会だけでなく、教会の中にも存在し、恵みや聖霊の流れを止めているところが見受けられます。これは日本の教会だけの話ではありませんが、自分の教会の成長や祝福だけを考え、与えられた恵みを外に流さない教会も「沼地」の状態だと思います。
前回のニュースレターで(その記事はこちらから)、ケンがテンス教会に赴任した当初の惨憺たる状況と転機となった聖霊の言葉についてご紹介しましたが、役員や信徒の中には縮小し続ける教会に歯止めをかけるには、ホームレス・ミニストリーのような外に向けた奉仕ではなく、教会員だけに向けたミニストリーに力を注ぐようケンに圧力をかけてきた人が多くいたそうです。人間的な考え方では確かにそうすることが妥当で安全のように見えますが、神のやり方は人間のものとは違います。 今から思えば、ケンが聞いた「返すことができない人を祝福しなさい」という聖霊からの言葉が恵みの流れを作ったように思えます。自分に返ってくることを期待してだれかに良くしても、流れは逆流して滞ります。神の豊かさを信じて、たとえ貧しい時も喜びをもって恵みを人に分け与え、流し続けていく時に、私たちは聖霊の流れの中に留まることができるのではないでしょうか。
教会が貧しく、うまくいっていない時から与える精神は培われ、それが今のテンス教会の特長の一つとなっています。今年の1月、ケンはワールドビジョン・カナダから世界の貧しい子どもたちに貢献したとして「Hero for Children」という賞を受賞しました。(礼拝やセミナーなどを通して人身売買や貧しい子どもたちの置かれている現状を知る機会を作り、この5、6年だけでも500,000カナダドル(約4,386万円)以上の寄付をテンスからワールドビジョンに贈ることができました。)また、毎年教会収入の20%は教会の外のミニストリーに使われています。もちろんお金だけでなく、海外宣教や地元のコミュニティーのためのミニストリーを通して多くの教会員が教会の外に出て行き、人々に仕えています。
沼地だったテンス教会に、神が再び聖霊の流れを呼び入れてくださいました。確かに日本の風土には、沼地的な要素があるかもしれません。しかし、神は沼地にも再び流れを生じさせ、川の一部とすることができるお方だと私は信じています。信仰と勇気を持って、神のみことばに従っていくときにそのことが起こると信じています。
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